『死刑』(森達也)

興味深く読んだ。死刑。取材対象を前に揺れ動く心境を綴るのが持ち味の森達也さんだけど、今回そんな森さんが最大瞬間風速的に一番揺れ動いたのではないか、と私が読んでて感じた部分を引用。

「加害者を憎むために、あるいは死ぬことを見届けるために、今後も生きていくという人がいたとしたら、……僕はまわりがその生き方を肯定しちゃっていいのかなと思うのだけど。とても寂しい生き方だと思います」
 僕は言った。おそらくは何度も浴びせられた質問なのだろう。藤井はよくわかりますよというようにうなずいた。
「でも、それはやっぱり個々の問題でね。そういった人生に対して寂しいとかなんとかっていうのは、僕は言えないんですよね。冷たいって言われるかもしれないけれど、一生人を憎み続ける人生がどうなのか、良いとか悪いとか、寂しいのかどうなのかは僕にはわからないし、それを第三者が言っていいのかどうかもわからない」
 確かに寂しい生き方と僕は決め付けた。それは認める。でも人は干渉し干渉されながら、つまり人との相互作用のなかで生きる生きものだ。決めつけではなく干渉。似ているけれど少し違う。自分の物差しによる世界の定義。それはきっと間違ってはいない。
 でも同時に思う。憎み続けたいとの気持ちは本心なのだろうか。愛するとか笑うとか怒るなどの感情に「〜たい」を意味する願望がつくことの意味を、僕はもう少し慎重に考えるべきなのかもしれない。
(P274-275)


死刑囚との出会いをきっかけにして死刑について考えるようになった森さんが、表紙にある「人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う。」という結論めいたものにたどりついたのと同じように、上の「藤井」ことノンフィクション作家の藤井誠二さんが「二十代半ばぐらいまでは、僕も死刑廃止論者でした。(中略)犯罪の被害者家族の方たちに会い続けてきて、(中略)話すことで僕の中の理念が少しずつ変わってきたんです」(P269-270)と言う。「人は干渉し干渉されながら、つまり人との相互作用のなかで生きる生きものだ」。確かにその通りだと思う。


死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う