きみの聴いた音楽は我々が既に三千年以上前に聴いた音楽だ

日日ノ日キ - これから音楽に出会う若い人たちへ〜ダッシュ君、そしてダッシュ君と同じ気持ちの人に向けて〜を読んで。
まず思ったのは、やっぱり音楽は音「楽」で、音「学」じゃないよねということ。この類の話は愛媛川十三の評論『いーから皆密室本とかJDCとか書いてみろって。』(『群像』2003年12月号掲載)を引用するのがてっとり早いと思うので以下引用。

もうホント当たり前のしょうもないことから書いておくけど、「文学」なんて学問はない。小説や物語には「学問」としての体系などない。あるのは音楽と同じく才人の登場と退場の歴史であり、それが偶然に作ってきた曖昧な文脈だけだ。
(中略)
小説や物語なんてものはただひたすら人を楽しませるためにあると信じているから、音楽に倣って「文楽」と呼ぶべきだったのだと俺は思う。

ちょっと略し過ぎた。あとそもそも愛媛川十三の評論の趣旨は「俺は文楽(ぶんがく)がやりたい」なんだけどまあいいや。要するに今回の「音楽」の話だと、渋谷系とかは全然知らないけど、それらはあえて言うなら「音学」なんだと思う。
「学」だとどうなるか?また引用すると、「「学」だから、「判ってる人間」と「判ってない人間」がもちろん出てき」て、「楽しむことには特権的な高みが持ち込まれ」る。「特権的な高み」の話には面倒なので触れないけど、つまりはこういうことだ。
どういうことかというと、もちろん体系とか系譜とか歴史を面白く思うのもいい。けど音楽の場合、せっかく「音楽」なんだから、やっぱり大事なのは自分自身が経験して、楽しむことなのだ。
とりあえず知らない道を通って、知らない場所へ行ってみること。そうしなければ、烈海王に「君らのいる場所は我々はすでに三千年以上前に通過しているッッ」とさえ言ってもらえない。
まとめ。個人や世代の違いとかの話はお前以外の人間は全員お前じゃないメソッドで自己解決ということでいいんじゃないの?(そうですね。)